マーキング

 




移動教室の帰り。
いつものように何気ない風を装い、ちらと幼なじみのクラスを覗いて。
途端、沸き起こってくる嫌な予感に、希一は眉をひそめた。
ただそこに座っているだけでも息苦しいデッドゾーンにある、教室中央のあいつの席。
余程のことが無ければ、あいつはいつもその席で、自分を取り巻くすべての事物を遮断するかのように、授業開始直前まで机に突っ伏している。
だが、今、その席にバリケードを張る主は居ない。
希一は益々険しくなってくる眉間を何とか押し留め、そのまま室内に視線を走らせた。
なけなしの期待を込めて、幼なじみの姿を探す。
しかし、ほんの小さな期待は今日も裏切られる。
学年の中でも特に優秀な生徒が集まる理系の特別クラス。
高校生に相応しい賑やかな休み時間の中にも、お互いがお互いを牽制し合うような、そんな独特な空気が澱んでいる。
この空気感に馴染むことを、心底から拒絶している自分の幼なじみが、自分の席以外の場所に居るはずは無かった。

またか―――。

希一は心の中で思い切り舌打ちした。
今回で何度目になるのか、すでに考えたくも無い。
また世宇が消えた。
居場所は解かっている。
どうせあそこだろう。
次々と浮かんでくる情景が、手に持っている生物の教科書を投げつけたい衝動を引き起こす。
その感情を押さえ込むかように、希一はゆっくりと瞼を閉じた。
学年きっての優等生。
そう称される自分の幼なじみが、日々多大なるプレッシャーの中で生きていることは、すでによく理解している。
自分もまた同じ境遇にいるのだ。針の筵のような空間で生き抜かなければならない、その苦しさは手に取るように解かる。
だから、今、世宇がそうしているように、時にそこから逃げ出してしまいたくなる気持ちも解かる。
日常の中の一時的な逃避は、まともな精神を保つ為の、所謂、あいつの自己防衛なのだ。
よく、理解している。
ただ。
正直。
うんざりだった。
自分という存在を得ても尚、心の安寧を得られない世宇。
世宇にとって、自分は未だ支えにはなれていないのだと、世宇がこうして消える度に、そう言わしめられているようで。
自分は、世宇のおかげで、想像以上の安定を手に入れることが出来たというのに―――。
うんざりだった。
心底、腹立たしかった。
他の誰でもない無力な自分に対して。
そして、更に腹立たしいのは、あの男の存在だ。
出来ることならば関わり合いになりたくない人間の中でも、最上ランクに位置づけられている男。
世宇はフラストレーションを発散する為だけに授業をサボっているわけではなく、いつもその男に会いにいっているのだ。
なぜか。
それは多分、自分では与えてやれない何かを、その男が与えてくれるからだろう。
キリと奥歯を噛み締める。
自分はどこまであの男に嫉妬すればいいのだろうか。
そう思うと、余計に自分の無力さを感じて、苛立ってくる。
希一は、拳をきつく握り締めた。
そして、決然と、とある場所に向かった。

屋上に続く階段は滅多に窓を開けないせいか、どこか埃っぽく、初夏の生温い空気が篭もっていた。
否応なく纏わりついてくる熱気に、忌々しさが募っていく。
希一は、無意識に襟元のタイを弛め、カッターシャツの第一ボタンを外した。
上に登るにつれて、薄暗い階段が徐々に明るくなり、それに順応しようと視神経が活発に働き出す。
眼裏を無数の閃光がちらちらとかすめるような刺激に、希一は顔を顰めた。
階段を上りきり、鉄扉の前に立つ。
分厚い曇りガラスを通して注いでくる陽光が、その先の明度と温度を主張する。
希一は覚悟を決めたように鉄扉のドアノブに手をかけ、ふと。
こうして決死の思いを抱えなければならない程、自分はあの男を畏れているのだと再確認し、腹立たしさがいや増した。

屋上の広い空間に出た途端、眩しいくらいの陽光に照らされ、希一はまた顔をしかめた。
宥めるようにしてゆっくりと瞼を持ち上げると、その先には想像通りの光景が在った。
初夏の陽光の下、いつものように空と平行になって寝そべっている世宇と。
その傍らに。
こちらに背を向けていても、世宇とはまた別の意味で見間違えるはずのない男が、ゆったりと胡座をかいて座っている。
まるで、しめし合わせたように、この場所で逢瀬を重ねる二人に対して、希一は毎度憤りを感じずにはいられなかった。
視線の先で、世宇の寝顔を見つめている男が、その方向にゆっくりと手を伸ばし。
そのまま流れるような動作で世宇の髪を優しく梳いていく。
男の横顔には、まぎれもない世宇への情が溢れているようで―――。
希一はまた拳を握り締め、憎たらしいほどに大きい背中に近づいた。
「必要以上に世宇にかまうのは、好い加減、やめてもらえませんか」
背後から言い放つと、男は世宇に触れる手を収めぬまま、低い忍び笑いを散らした。
第三者が近づいてきていることなど、とうに気づいていたはずなのに、チラとも顧みない男に腹が立つ。 あまつさえ、こちらを煽るように世宇の髪に触れたりして。
心底忌々しい気持ちで傍らの世宇を見やると、どこか安心しきったような幼い顔で、すやすやと眠りについている。
その心地良さそうな世宇の表情がまた癪に障る。
世宇は、未だこの男の前で無防備過ぎるのだ。
「俺に世宇を奪われそうで怖いか」
笑い含みの声音で問われ、希一の眉根が寄る。
奪われるなどと。
そんなこと、露ほども思っていない。
ただ目の前の男の存在が気に入らないだけで。
希一は無言を通した。
男の唇からまた低い忍び笑いが洩れる。
髪を梳く手を止め、ゆっくりとこちらに顔を向けた蔵元は、希一の心中を知ってか知らずか、至極愉快そうな笑みを浮かべていた。
希一はただ蔵元を射殺すように睨みつけた。
必要以上に言葉を交わしたくない。
校内ですれ違うことすら厭う男と、どうして、こうも頻繁に顔を突き合わせ、くだらない応酬をしなければならないのだろう。
無言を通す希一に、蔵元はまた笑みを散らす。
「すげー瞳するなー。どこか、世宇と似てるな」
蔵元は世宇に視線を戻し、ふ、と微笑った。
自分を煽ることを差し引いたとしても、その表情には、やはりある種の情が篭もっているような気がした。
この男には好きな人がいる、と少し前に世宇に聞かされたことがあったが。
それは、一時的な安心感を自分に与えただけで、この男に対する不穏な感情は拭い切れない。
真実、この男が世宇のことをどういう風に想っているかなど、自分には読み切れない。
ただ、この男がまともな神経で恋愛をするとは到底思えなかった。
それは希一が蔵元さんのことを知らないからだよ。
世宇は微笑を浮かべ、常にそう自分を諭すが。
そうなのかもしれないが。
自分の預かり知らないところで築き上げられた信頼関係など、自分には何の影響も及ぼさない。
ただただ、その関係に身を浸して安らいでいる世宇も、また、その関係を当然のように継続しようする目の前の男も、何より、その関係をもはやつき崩すことの出来ない自分が許せなかった。
硬い表情のまま、希一は口を開いた。
「―――好きなんですか」
「世宇?」
視線だけで頷きを返すと、蔵元は今までになく鮮やかな笑みを浮かべた。
「好きだぜ。世宇が俺を必要だってんなら、いくらでも抱いてやる覚悟はあるけどな」
冗談のようにも聞こえる声音に、蔵元の情の篭もった瞳が絡む。
それは今後起こり得る現実のようにも思え、希一は自分の顔が歪んでいくことを止められなかった。
何より、どこまでがこの男の本心なのか、やはり全く読み切れない。
それがひどく不快で、希一はギリと奥歯を噛み締め、教科書を握る拳に力を篭めた。
そんな様子を見て取った蔵元は軽く吹き出して、希一を真正面から仰いだ。
「想像もしたくないって顔だな。んー、やっぱお前もかわいいなー」
あくまでふざけようとする蔵元を睨めつけた。
「―――殴られたいですか」
「勘弁してくれよ、俺は意味もなく殴られる趣味ねーぞ。だいたい、世宇は俺なんて眼中にもねーからな」
さらりと言ってのけるが。
そうは思えない。
だから自分はこんなにも嫉妬するのだ。
希一は拳を握り締めたまま、目を伏せた。
いつも、こうだ。
どんなに冷静でいようとも、男の前に立つと知らぬ間にペースを乱されている。
勝手に身を襲ってくる言いようの無い敗北感にも似た感情を、どう振り払えばいいのか解からない。

「高瀬」

名を呼ばれ、ゆるゆると顔をあげ。
蔵元の顔を見た途端、不覚にも、びく、と身体が震えた。
一瞬にして、全身が緊張する。
先程まで喰えない笑みをその顔に貼り付けていたはずの男が、ひどく真剣な表情で自分を見つめている。
研ぎ澄まされた鋭い視線が、まるで値踏みするかのように、上から下まで自分の全身を襲う。
今まで一度として目撃することが無かった雰囲気に気圧され、希一は為す術もなく、固まったように動けなかった。
やはりこの男は得体が知れない。
引き攣れるように乾いた喉を潤すかのように、希一が、コク、と喉を鳴らした時。
それを見計らっていたように、蔵元がまた吹き出した。
そのまま至極鮮やかな笑みを零している。
希一の身体が正直に弛緩し。
またからかわれたのだ、と思い至り、希一は不機嫌も露わに口を開こうとしたが。
再度、蔵元の真剣な表情に行き当たり、言葉を紡げなかった。
やはり得体が知れない。
その心の内を読んだかのように、蔵元は、ふ、と表情を和らげた。
こいつ全然起きねーな、と一度世宇に微笑みかけてから、
「なあ、高瀬、」
ひどく優しさの滲む声で呼び掛けられた。
自分が侮られていることを思い知らされ、それがまた癇に障ったが、 続く声音は明らかに真剣みを帯びていて、希一はまた開きかけた口を閉じざるを得なかった。
「お前が不安になるのは解からねーでもないけどな、妙な心配すんなよ、世宇はお前しか見てねーよ」
そんなこと解かっている、と意志を込めて蔵元を見つめる。
その瞳を満足そうに受け止めて、蔵元は続けた。
「世宇はゲイじゃない。その証拠に俺がキスしようとしても、いっつも冷めた瞳してたしな―――・・・んな怖い顔すんなよ、何もしてねーから」
凶悪に歪んでいった希一の顔を見て、蔵元は嘆息しながらその長い指で自分の髪をかきあげたあと、ったく、と小さく呟いた。
「本人はそのことに気づいてなくて、男を好きになった自分に散々苦しめられたみたいだけどな。―――だから、」
強い口調で言葉を切ると、蔵元はまた真剣な表情で希一を仰いだ。
「お前が率先して疑うなよ。世宇は高瀬希一って人間しか見てねーよ。解かってんだろ、んなこと」
真摯な声音が、不思議と染み入るように希一の胸に響いた。

ああ、解かっている。
世宇が、ままならぬ想いにどれほど苦しめられてきたか。
その想いを告げるまでにどれほどの葛藤があったか。
自分をどんなに想ってくれているか。
よく解かっている。
自分もまた同じ気持ちを抱えてきたのだから。

蔵元の真剣な眼差しが、希一の心を席巻する。
世宇がなぜこの男から離れられないのか、希一は、この時に初めて解かった気がした。
多分、この男は、こうして何気ない風を装って、何度も世宇の心を掬い上げてきたのだろう。
まやかしの笑顔の裏に、あんなにも真剣な表情を潜ませて。
先程とは違った敗北感が希一の身を包む。
敵わないと、思う。
少なくとも、目先の焦燥にいつまでも駆られているような、現在の自分では。
ただ、そこに甘んじる気は更々無かった。
いつか必ずこの男を超えてみせる。
その決意を押し隠して、蔵元を見ると、まるで全てを見透かしたかのような瞳で、面白そうにこちらを見つめていた。
所詮、これが今の自分と蔵元の差だ。
改めて思い知らされるが、ただもうそれに感情を乱されることはない。
希一は幾分落ち着いた様子で、気になっていたことを口にした。
「どうして、世宇にそのことを言ってやらなかったんですか」
お互いの気持ちを知ったあの夜。
生物学上、自分と同質の“男”を好きになった自分自身に、世宇は未だ苦しめられていた。
しかし、先程の蔵元の言動からすると、それが杞憂であることくらい、蔵元はとうに解かっていただろう。
世宇がゲイではないことを諭すくらい、この男には簡単に出来ただろうに、なぜそうしなかったのか。
そういう思いを込めて問い掛けると、蔵元が喰えない笑みを浮かべて口を開いた。
「悩んでる姿がめちゃくちゃ可愛かったから」
そう言って、言葉を濁すように、蔵元は世宇の髪の毛をくしゃりとかき撫ぜた。
そのいけ好かない答えに希一は頭痛を感じたが。
同時に、蔵元の様子から、それが虚言だと解かって、何となく納得する。
他人が教え諭すより、独力で答えを見つけ出す方が、より真実に近づける。
世宇の抱える問題が浅慮ならざるものであったからこそ、おそらく、蔵元はそういう考えを強めたのだろうし、 また、その方向に導いた世宇が今以上に迷わないように、その傍に寄り添った。 つかず離れず。絶妙な距離感を保って。
視線を上げて、そっと蔵元を伺う。
世宇の髪をしきりと弄ぶ蔵元の長い指が、何かを探し求めているようにも見えて。
希一は、自分の到達した結論が全てではないと悟った。
ただ、今解かることは。
おそらく。
世宇にこの男が必要であるように。
この男にも世宇が必要なのだろう。
それこそ自分が甘受すべきではない気がしたが、多分、この先も目の前の二人が今のスタンスを崩すことは無いだろう。
結局、自分の預かり知らないところで出来上がった関係は、自分には侵すことが出来ないのが、希一にとっての真実だった。

「―――ん・・・、」

「お。やっとお目覚めか」
蔵元に髪を弄ばれていた世宇が、やっと覚醒の気配を漏らす。
ゆっくりと瞼が持ち上がり、差し込んできた太陽の光に一瞬だけ顔を顰めたあと、世宇はその印象的な瞳を外界に曝した。
眠っていると幼子のようだった顔が、生気を帯びていつもの幼なじみの繊細な顔に戻っていく。
その様が例えようもなく眩耀で、希一は目を奪われた。
「あー、よく寝た」
むくりと起き上がって、ひとつ伸びをした世宇は、快晴の空に気を取られたまま、こちらの存在には一向に気づかない。
「世宇」
待ち構えたような声音で希一が呼び掛けると、世宇はすぐにぱっと振り返り、希一をその視界に入れると極上の笑みを零した。
「希一」
喜色の篭もった声音が、希一から叱る気力を奪っていく。
二人の表情を終始目撃していた蔵元が、またくつくつと笑いを漏らした。
希一は抑えようも無い溜息を漏らし、世宇を促す。
「戻るぞ」
「え――うん」
一瞬だけ逡巡した世宇が、ちらりと蔵元を見たことは、この際、黙殺してやった。
立ち上がった世宇が制服についたコンクリートの屑を払う。
その姿を希一が見守っていると、 それまで二人の遣り取りをにやにやとしながら黙って見ていた蔵元が、不意に立ち上がった。
「世宇」
呼びつけた視線の先で、蔵元は何を思いついたのか、希一の襟元に、す、と手を伸ばした。
希一がそれを避ける間もなく、蔵元は、希一の寛げられたカッターシャツの隙間からそっと手を差し入れると、鎖骨の辺りを艶かしく撫で上げた。
ぞわ、と、思いもよらなかった刺激に、希一の肌が粟立つ。
それすらも気づけないほど固まってしまった希一が視線だけを動かすと、驚くほど近くで、ひどく淫蕩な瞳をした男と目が合い、希一は思わず息を詰めた。
そんな希一を満足そうに見届け。
蔵元は希一の肩に手を触れたまま世宇の方を振り返り、挑発するように薄く笑った。
「こんなもん付けてやると、キイチくんは色気5割増しになるから、注意しとけよ」
艶然と言い放ち、更に世宇を煽るかのように、希一の身体に密着した。
蔵元のセクシャルな豹変振りに圧倒されていた希一が、“こんなもん”と称されたものの正体に思い至ったのは、 灼熱の空気を宿した世宇に身体を引き寄せられた時だった。
世宇につけられた情事の痕。
キスマーク。
悠長にそんなことを考えていた希一は、更に強い力で引き寄せられて初めて、その主の顔をまともに視界に入れた。
そこに、顔を上気させて明らかに怒り心頭の世宇を見つけたのも束の間、まるで狙い済ましたかのように、いきなり口づけられ、希一の思考が止まる。
蔵元の目の前で、あたかも見せつけるかのように思うさま希一の唇を堪能した世宇は、希一の身体を蔵元から遠ざけるかのように囲ったまま、鋭く言い放った。
「希一に手を出したら殺しますよ」
明らかな脅しは嫉妬に塗れていて。
そんな世宇を見て、蔵元はひどく愉快そうにひとつ笑みを零すと、そのままひらひらと手を振って去っていった。

鉄扉の開閉音が響くと、世宇はすぐさま希一に向き直った。
「見惚れただろ」
一連の出来事に頭がついてゆかず、未だ目をしろくろさせていた希一は、その問い掛けが飲み込めなかった。
「―――は・・・?」
歯切れ悪く呟きを返す希一を見て、世宇は更に嫉妬の火を燃やしていく。
普段から冷静な自分の幼なじみは、こんな空惚けた表情を滅多に見せない。
希一をここまで乱した蔵元に対して、今更のように心中で毒づきながら、世宇は希一の襟元を両手で引き寄せ、どこか定まらないままの希一の視線を絡め取った。
「お前、蔵元さんに見惚れてた」
真正面からきつく見据えられ、希一はその視線の強さで急速に我に帰る。
「―――見惚れるか」
どこか苛立ったように逸らされた視線が、まさにその答えを裏切っているようで、世宇は尚更気に入らなかった。
確かに見惚れていた。
自分は確かに目撃した。
蔵元の淫蕩な視線に絡め取られて、思い切り動揺した幼なじみを。
あの時、希一は確かに蔵元に見惚れていた。
本人がそうとは気づかない程、鮮烈なあの人の色香に支配されていた。
我慢ならない。
許せない。
「今すぐ抱け」
世宇が嫉妬心を剥き出しにして要求すると、希一は軽く息を吐いて、世宇に視線を戻した。
「何言ってんだよ」
「抱け」
「駄目だ」
呆れたようにそう諭されて、世宇は頑是無い子供のように全身で抗議した。
そんな世宇の様子に希一は瞑目した。
一体何に対してそんなに怒り狂うのか。
蔵元に見惚れる云々など、自分には覚えが無い。
いつも同様、ただあの男に圧倒されただけで。
嫉妬で狂いそうなのは自分の方だ。
そんな自分に向かって、抱け、などと。
精神を乱され、ただでさえ、制御が効かないってのに―――。
何かを振り払うように軽く頭を振った希一は、持っていた教科書をコンクリートの地面に放り、 自分の襟元を締め上げている世宇の両手を掴んで優しく握りこむと、真正面から世宇を見つめた。
「俺は、お前を抱く時はいつも完璧に犯ると決めてる。こんなとこで、目先のスリルだけを目的にセックスはしない」
世宇がそんなスリルを求めてセックスを要求したのではないと頭では解かっていたが、希一はそう言って世宇の抗議の視線を受け止めた。
希一の決然としたその科白にもまた多大な不満を感じたが、世宇は希一の喉元に軽く噛みつき。
ひとつ要求した。
「キス」
希一は軽く嘆息すると、これ以上なくギラギラと好戦的な世宇を優しいキスで黙らせた。

Fin.

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UPDATE 14032007 (C)ARIKA TATENO